日時:2024年8月3日(土) – 8月12日(月・休) 13:00~22:00 ※8月7日(水) 休み
場所:高円寺 Plateaux Galerie
   東京都杉並区高円寺北3-8-12-2F
作家HP:https://www.setouchishoyo.com/


 1965年に雑誌「新潮」で連載が始まった『黒い雨』は、1945年8月6日、アメリカ軍が広島市街へ投下した原子爆弾による被害の状況を、主人公「閑間重松(しずま・しげまつ)」の被爆当日と、その後の生活によって描いた井伏鱒二の小説です。1966年に新潮社より単行本として出版され、同年の野間文芸賞を受賞したり、1989年にはアイドルグループ・キャンディーズの元メンバー、田中好子を主演に今村昌平監督が映画化し、日本アカデミー賞の各賞を受賞するなどして話題となったので、ご存知の方も多いと思います。
 重松は原爆が炸裂した直後から、妻や当時預かっていた姪を探しに広島市内を、被爆した横川駅から、破壊の凄まじい広島駅、火焔の迫りつつある自宅を経由して、姪が働いていた日本通運のある宇品まで歩き、電線が溶け落ちて燃えている目抜きの電車通りを経由し、再び横川方面へ引き返し、列車が動き始めていた山本駅から、会社のある古市まで避難する行程が、詳細に描かれています。
 この小説にはいくつかの元資料があって、被爆者・重松静馬の『重松日記』や被爆軍医・岩竹博の『岩竹手記』などを元に書かれています。被爆の具体的な記述は『重松日記』に負うところが大きく、特に被爆当日の閑間重松の行動については、ほぼ日記に沿って描かれています。井伏も生前に語っていますが、『黒い雨』は井伏鱒二と重松静馬の共著とも言える小説です。
 重松静馬は被爆の翌日から手記を書き始めたそうです。1950年に清書された日記の「火焔の日」と題された前文に、執筆者として、氏名ではなく「父」と入れたように、子孫が読んでくれることを前提に書き溜めました。読む人がいるいないに関わらず、この凄惨な記憶を書き出さないわけにはいかなかったのかもしれません。

 門外不出とされていた日記ですが、重松の死後、子孫の方の了承を得て、2001年に筑摩書店から発行されました。その前文の「火焔の日」に以下のような記述があります。
 「何時の日にか、此の日の日誌を開いて読んでくれる時には、広島市街の地図を開いて、彷徨路線をたどり乍ら、惨状をば創造力を無限大に拡大して読んでくれ。惨状の拡大は人間の能力では決して過ぐることは無い。
 市街も変わるであろうが、それでも地形的には、大体の死線上の彷徨路線や、市民の生命と共に市街が焼けていくその凄惨さの概要はわかると思う。そして何時の日かに、変わりゆく歴史の一頁の起因や実情が幾分でもわかってくれたら、それで満足である。」
ー 重松日記「火焔の日」より
 この文章を読み、自らの足で、重松静馬の足取りを辿りながら写真を撮り歩くことを決めました。

 8月4日 広島着。市街のリサーチを行う。
 8月5日 市街のリサーチに続き、古市の太田川の河原で風景の撮影。夜、平和公園に行く。多くの人がロウソクを灯していた。
 8月6日 横川駅から広島市街を丸一日、静馬の行程を辿り写真撮影、横川駅に戻る。
 8月7日 帰京